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050:「「幽体離脱の芸術論」の射程距離」と「私」との「内的共鳴」

岐阜に行って,小鷹研究室の「からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)───ボディジェクト思考法」を体験して,トークセッション「「幽体離脱の芸術論」の射程距離」を聞いてきた.

トークセッションでアーティストの金井学さんが身体もオブジェクトであり,オブジェクトは差延するということ言っていた.「オブジェクトしての身体」というのは,まさに小鷹研究室が行っていることなのだが,オブジェクトだから「差延」が発生するというのは面白いと感じていた.身体がオブジェクトであり,そこに「差延」が生じるという話の前に,そもそも人工物一般=オブジェクトは言語であり,言語なので「差延」が生じるという話になっていた.

オブジェクトにも身体にも差延的ズレが生じる.これを前提として,金井さんは技術を介して,オブジェクトと身体とのあいだに「内的共鳴」が起こると言っていた.もしかしたら順序が逆で,オブジェクトと身体とのあいだに「内的共鳴」が起こり,それが技術につながると言っていたのかもしれない.

「オブジェクトとしての身体」と「内的共鳴」という言葉を聞いたときに,小鷹研究室の体験とトーク,そして,そこにいた私の考えとのあいだにまさに内的共鳴が起こった感じになった.「内的共鳴」が起こるとき,オブジェクトと身体とは固有のリズムを持っていて,それらが共鳴して,同一のリズムに変わっていく.そうして,オブジェクトという「そこ」と身体という「ここ」とが重なり合り,絡み合っていく.もしかしたら,オブジェクトが身体のリズムを励起させて,共鳴して,さらに大きな渦のようなものになるかもしれないし,その逆が起こるのかもしれない.何れにしても,「内的共鳴」が起こるときには,「そこ」にあるオブジェクトと「ここ」にある身体とは「ここがそこになり,ここがそこになる」ということが起こり,「ここがそこであり,そこがここである」ような状態になっている.オブジェクトと身体とが抱えている差延=ズレが共鳴して,そのズレが一つの場としてあるような状態になる.

「内的共鳴」はオブジェクトだけでも,身体だけでもダメで,少なくともふたつオブジェクトがそこになければならない.そして,その共鳴の仕方によって,ズレのあり方が意識される.そのズレがこれまでと異なるときに,そこに「あたらしい」体験が生まれるのではないだろうか.金井さんは「内的共鳴」の前に「あたらしいことを知ることはできるのか?」という疑問を投げかけていた.自分が知らないあたらしいことを「あたらしい」と認識することはなぜ可能なのか.確かに,「あたらしい」ものを認識できたとすると,それを知っていたとも言える.知っていたとするならば,それはあたらしくない.このように考えると「あたらしい」ことをつくる=発明は可能なのかということ話になる.ここで「内的共鳴」で,ふたつのオブジェクトの関係を考えてみると,あたらしさはヒトが決めるものでもなく,オブジェクトと身体とのあいだで「内的共鳴」が起こり,「内的共鳴」の場が「あたらしさ」を決定するのではないだろうか.そして,そのときヒトは少なくともこれまでの差延=ズレのことを知っていると,身体とオブジェクトとの間の「内的共鳴」で生じるズレがこれまでのズレの仕方とは異なるということを,オブジェクトとともに知ることになるのではないだろうか,ということを思った.そのときは「内的共鳴」が起こっているので,ヒトはオブジェクトであり,オブジェクトはヒトであるという状況になっていて,パースペクティブの変換が起こっているからこそ,ヒトとして異なる視点から自分を体験することになるから,「あたらしさ」を認識しやすくなっているとも考えられる.

小鷹研究室のそれぞれの装置・作品は「内的共鳴」をつくりだすオブジェクトであり,それはオブジェクトとしての身体がもつ差延を固有のリズムに引き込むものになっているのだろう.

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